会議論

 およそ会議というのはくだらないものである、というのが私の持論なのですが、これはある種の日本文化論でもある訳です。

 集団における意思決定の方法として会議(話し合い)というのが民主的でよいものとされています。そこで有意義な議論がなされるのであれば誰も文句は云わないのですが、経験的な事実としては会議の有効性を疑いたくなるようなものが非常に多い。要するにくだらない会議にしか出たことが無いということです。

 ここで考えるべきは、なぜ会議がくだらないものになってしまうのかということです。理念としてはすばらしいはずのものが現実にはそのように機能していない、ここにどういうファクターが絡んでいるのかということです。

 ある事案に対して単純に賛成か反対かというだけの会議ならそんなに停滞することもないはずですが、現実にはそう簡単な話ではない訳です。反対という意見表明には既に提示されたものとは別の選択肢の存在が含意されています。これを踏まえた上で会議停滞の原因を考えると、代替案が十分に練られていないために反対者の発言が要領を得ないものになる、或いはこれは論外ですが原案自体がそもそもよくないという場合もあるでしょう。要するにその議題に対して参加者が各々明確な主張を準備しないで会議に臨むとろくなことにならんということです。

 会議はその中の議論だけでは成立し得ない訳で、事案に対する十分な検討と共に根回しも必要になります。これは単に自分への賛同者を集めるというだけの皮相的なものでなく、建設的な批判を促すという意味もあります。この種の根回しは会議の参加者が多ければ多いほどその重要性が増すのですが、なかなか上手くいかない。だからこそ会議自体がスムーズに進行せず、くだらないものになっているのですが。

 ここまでは準備段階での問題を指摘してきましたが、もうひとつ会議中に生じる問題、つまり議事進行の問題です。

 例えばホームルームなどでよくあるパターンに「○○について何か意見はありますか?」というやつ。こんなんでバシバシ意見が出るような社会だったら苦労は無い(まぁ別の苦労はあるかもだけど)です。準備段階の問題とも関係しますが、進行役は明確なビジョンを持って全体を誘導していかなければならない。議長はバカでは務まらない訳です。

 議長というのは、ある場合には利害対立を調整して意見集約を図らねばならないし、また参加者の準備が不十分な場合にはそれをフォローしてうまく会議に参加させるような誘導的な発問や進行もしなければならない。あらゆる状況に臨機応変に対応できるような柔軟さと理解力を有する逸材なんてのはその辺に転がってる訳もなく、これも会議を停滞させるひとつの要因です。

 では、くだらないと解っていながらそれを解消するような工夫もせずただ漫然と不満を並べるだけの会議参加者たちは何を思ってそうしているのか。これを彼らの怠慢に帰するのもひとつの結論ではありましょうが、それでは余りに非生産的なので別の可能性を考えます。

 これまで日本的な集団気質とヨーロッパ的な個人主義という古臭い文化比較みたいなものを背景として書いてきた訳ですが、会議が停滞するというのはよくよく考えれば世界中どこでも多分変わらない。効率性の追求を是とする近代民主主義みたいな理解は解りやすいけれど、そう単純な話でもないと思います。個人的には会議による意思決定というシステム自体に限界があると考えていて、民主主義というものをそんなに信用しない立場なのですが、とりあえず私のことは置いておいて、元の話に戻ります。

 会議はくだらないと思いつつも何もしない、という態度には2つの側面があると考えています。まずは手続きとしての民主主義を尊重しますという意思表明、体制への恭順を示すという意味。もうひとつは(前のやつと少しかぶりますけど)苦痛を共有するという儀礼的な意味。

 勿論我々が直面する会議の停滞には日本的な集団性に帰するいくつかの障害を見出すことも可能です。それはそれでいいのですが、もう少し根本的な問題があるんじゃないのかというのが今回の考察で云いたかったことです。

 近代民主主義は本当に私たちを幸せにするのか、こう云うと左翼ゲリラの人みたいでイヤですけどね、時々そんなことを考えたりします。