少女マンガにおける歴史というジャンルについての考察<前編>

 マンガには確かに歴史モノというジャンルがありますが、少女マンガと歴史というのは何とも微妙な関係です。「歴史モノ」は少ないように見えて、実は意外に多かったりする訳です。結構あるにもかかわらず少ないように思えてしまうそのカラクリについて考えて見たいと思います。

 きちんとしたデータがある訳ではないので断定的なことは云えませんが、全体の中での割合でみた場合「歴史モノ」の数が相対的に少ないというのは、多分正しいです。ただ我々が思うよりは数が多いはずです。一般的なイメージとしては少女マンガは学園モノによって代表されますから、こういうバイアスがかかるのはある意味自然なことです。しかし、「歴史モノ」が少なく思えるのはそれだけが原因ではないんじゃないかと思う訳です。とりあえずそういう仮定の下に話を進めます。

 ここまできて注意深い人は気付いたかもしれませんが、「歴史モノ」とカギ括弧付きで表記しているのにはそれなりに意味があります。単に舞台が過去であるというだけで「歴史モノ」と呼んでいいものかという問題があります。この問題については明確な答えがある訳ではないのですが、そういう留保が付いてることだけは気にとめておいて下さい。

 「歴史モノ」の少女マンガで最も有名なのは「ベルサイユのばら」なんじゃないでしょうか。革命期のフランスということであれば、よしながふみの「執事の分際」「ジェラールとジャック」もあります(同じくよしながの手になる「大奥」については後で言及します)。今パッと思い出しませんが多分フランス革命を扱った少女マンガは結構な数あるはずです。これと似たパターンで多いのが幕末モノ、というより端的に云って新撰組ですね。
 これらは云ってみれば激動の時代で、要するに人間関係(あえてここでは「恋愛」とは云いません)における外在的な障害として、危機的なシチュエーションとして機能します。
 この論でいけば戦国時代というのも同様に多く扱われていいはずですが、これはそんなに多くない(と思う)。私が読んだ中では柳原望の「お伽話を語ろう」以下の一連のシリーズが即座に思い浮かぶ程度です。恐らくこの辺は先行するイメージとの兼ね合いだったりがあるとは思いますが、なぜ戦国が好まれないのかはっきりした理由はよく解りません。

 少女マンガにおける「歴史モノ」の流れでもうひとつのグループが平安期を舞台にしたものです。「あさきゆめみし」に代表される源氏物語のような物語をオリジナルとしてマンガ化したものや、(数は多くはないかもしれませんが説話系のオリジナルを持つものもあると思う、)或いは小説を原作とした夢枕獏+岡野玲子の「陰陽師」や氷室冴子+山内直美の「なんて素敵にジャパネスク」「ざ・ちぇんじ!」(後者に関しては原作小説が平安期の物語を元とする作品)があります。
 こちらはどちらかと云うとロマン主義的な設定の仕方で、古代を舞台にする場合(山岸凉子日出処の天子」他)もそうですが、ファンタジー的な色彩が強くなります(念のため云っておきますが時代考証とかがちゃんとしてないという意味ではありません)。我々の日常から遠く離れているからこそ生じるロマンなのでしょうが、平安期を舞台とする場合は王朝文学の世界という既存のイメージに乗っかってるという側面も否定できません。

 ロマンという言葉でもうひとつ、大正期(或いは明治期)というのも比較的取り上げられやすい時期です。これは時代的には大きく隔たっていますが、平安期と同様にその時代に付されたイメージを利用するものです。

 ここまできてハタと思うことは、少なくとも日本史に限って云えば、鎌倉・室町・江戸(末期は除く)の武士の時代がスポッと抜けたような格好になっているとういことです。人々の生活を具体的に想像しにくい古代が描かれにくいというのは道理ですが、平安末期を含めると約800年間にわたる空白期間(勿論全くの空白ではないものの相対的に空白とみなしていいほどに密度が薄い)がなぜ生じるのかというのは『少女マンガ』を考える上で重要な問題のような気がします。直感的には「貴族」がキーになると思うのですが、これについてはまた別の機会に。

 後で触れると云った「大奥」は確かに江戸前期が舞台になっているのですが、疫病による社会の大混乱という要素で本来安定している(と考えられている)時代を無理矢理かき回したということで、「歴史モノ」というよりはSF的な捉え方をした方がよいような気がします。これをあくまで「歴史モノ」として考えるならば、激動の時代パターンで解釈可能なのでしょうが、「大奥」はそれ以上に複雑な問題をはらんでると思うので、そういう単純な思考はとりあえず脇に置いておくことにします。これも別の機会にちゃんと考えたいです。

 結局最初に云った「カラクリ」については何も触れてない訳ですが、「歴史」をどう捉えるかという問題とも関係してくるので<後編>に持ち越しということで、今日はここまでで止めておきます。