企画モノ

 とりあえず私も地球温暖化問題について何か云ってみるという企画?


 今回は現代社会の直面する重要な問題として、地球温暖化問題について考えてみたい。まずは現状についてであるが、そもそも現状認識の時点で深刻な対立がある。ひとつには産業革命以来の化石燃料の消費に伴う二酸化炭素排出、或いはその他の温室効果ガスの排出に起因するすぐれて人為的な原因による変化であるという立場。もうひとつは地球自体の長期的環境変動に伴う純粋に自然なオートマティックな変化であるという立場である。それぞれの立論の根拠についての正当性は兎も角としても、今回は社会学的な考察が主眼にある訳で、その意味で前者の立場に関する言及が増えるのは避けられないであろう。勿論それらは単なる科学的な意見の表明という以上にそれを公にすることは社会的影響関係などの中に位置づけられるものとしての性格があって、それらは十分に社会学的な考察の対象となりうるが、そうだとしてもやはり前者に対する言及が多くなるだろう。この点に関しては予めご了承願いたい。
 では先に後者の立場についてみていく。科学的な議論であることは間違いないのだろうが、科学というのは仮説の集合体でしかなく、真である保証というのはそう確かなものではない。若い世代の人間にはなじみが薄い事実だが、ほんの数十年前一時期気温が低下傾向を示した時期がありそこから氷河期が来るなんて学説が巷を賑わしていたという話も聞く。前の氷河期から既に1万年は経過しているので、そろそろ氷河期が来ても確かにおかしくはないし、データとして低下傾向が観測されたならばなおさら信じたくもなる。しかし、実際はその低下傾向は一時的なものに過ぎず、現在は気温の上昇傾向が盛んに喧伝されている。であるから、命題の正しさ自体ではなく、科学的な学説が一定の妥当性を認められるものとして主張されていることの方をむしろ問題にしたい。(命題の真偽について考えるのは自然科学に携わる学者の仕事であって、そういった類の知識を有しない私ごときが出る幕ではない。)
 その真偽については兎も角としても、この立場は温暖化に対するある意味で楽観主義的な態度であるといえる。つまり自然現象の一環として人知の及ばぬ問題であり、温暖化自体を人為的な介入によってどうこうすることは出来ないというものである。この主張自体は中立的な科学的事実を述べたものだとしても、この主張によって補強される幾つかの主張が存在することは確かである。端的に云えば、温暖化を不可避的なものとして捉えることで温室効果ガスの排出に関する規制の動きを無駄な足掻きと位置づけ牽制しようとする立場である。この主張は温暖化に伴う被害を低減することを必ずしも否定はしないが、それは実際に被害が生じた場合の対処療法的な措置に限定される。このような立場を正当化しうる理論として機能する可能性を排除できない。
 では前者の立場はどうか。世間的にはこちらの立場からの主張が一般的である。主に二酸化炭素についての排出削減を目標とした国際的な取り組みが既に行われてもいる。だがしかし、二酸化炭素の排出を抑制するということが経済活動を制限しないという留保が前提条件としてついて回っていることを見逃してはいけない。資本主義社会の逃れがたい大原則は「拡大」である。サスティナブル・デベロップメントという言葉にはしっかりと資本の理念が刻印されていることを忘れてはいけない。
 ここで感覚的にふと思うことは、仮に二酸化炭素の増加が地球温暖化の原因だとした時に、一時的には排出量削減が可能だとしても、究極的には二酸化炭素は増えざるを得ないのではないかということである。いくら家電の省エネ化をはかっても、人が生きていく上で化石燃料を消費するなら二酸化炭素は排出するし、呼吸によっても二酸化炭素を排出する訳で、絶対にゼロにはならない。ここで資本の拡大という理念が保たれ続けるならば、人の数が増えるのか或いは個々の経済活動の規模が増すかのどちらかによって資本を拡大させなければならない。そうなると二酸化炭素排出の削減と増加の間での均衡維持は果てしない自転車操業であり、削減の結果がゼロになりえない以上は資本の拡大に伴う排出増加の方が均衡を破るのは論理的必然である。ここまでくると現在なされている地球温暖化に関する議論の欺瞞というのが明らかになってくる。要するに今やっていることは問題の先送り以外のなにものでもなく、(いつになるかはわからないが)いつかは必ずやって来る自転車の転倒を隠蔽しようとするものであるということになる。
 原因に関する立場の違いはあっても温暖化傾向が続くだろうという立場には大きな違いはなく、また二酸化炭素排出を抑制するにしてもしないにしても両者は共に資本主義の精神に忠実な思考に基づいているということが解った。地球温暖化問題は環境に対する問題意識の、或いはモラルの問題として見られがちだが、実際は資本主義というシステム自体に避けがたく刻印された呪いの言葉の顕在化に他ならないということである。この呪いを解くために求められることはもうはっきりしている。即ち資本主義の超克である。
 ある意味でこれはモラルの問題などよりもずっと深刻な課題である。何しろ我々は現時点では資本主義に変わるオルタナティブな社会システムを理論として持ち合わせていないのだから。こうすれば万事解決という策がない段階で我々に出来ることは何なのだろうか。
 まず第一にしなければならないことは、問題点の所在を正確に把握することである。資本主義社会の前提をそのままにしていたらいつかは破綻する(先の比喩で云えば自転車の転倒)という現実から目を背けずに、真摯に対応策を検討することである。そのための時間稼ぎとしては現行の二酸化炭素排出抑制(自転車操業)は一定の有効性を持つであろうと考えられる。大事なのは地球温暖化というのは資本主義社会の限界を提示するひとつの具体的な表象であり、目先の対策だけで問題が解決したなどと思ってはいけないということである。
 自分なりの解決策を示せという指定であったが、問題は余りに大きく有効な解決策が示せるとは思わない。十分な提言ではないが、現時点の私に云えることは以上である。