コミュニケーションに内在するディスコミュニケーション

今日(2/6)の朝刊(読売)に、ケータイは遠恋の味方かみたいな記事がありました。云うてること自体はそんなに目新しい訳ではないのですが、ケータイはすぐにつながって当たり前というのが意外な落とし穴になるという話で、すぐにメールの返信が来ないと不安になる云々というのに改めてナルホドと思わされました。


 基本的に私などはメールの返信はすぐにはしないのが当たり前(用件の内容にもよりますが)なので、「常識」との乖離をしみじみ実感します。そもそも携帯のメールなんて都合いいときに見てくれという程度の緊急度の低いもので、かつ相手の都合とはお構いなしに一方的に送るものだと思ってますし、何より打つのがめんどくさい。

 電話にしろメールにしろいつでも自由に呼び出される可能性を常に伴っている感覚というのが、なんだか他者に拘束されてるような気がして嫌いです。固定電話だったら居留守とか使えますが、ケータイでやると何ででないんだと怒られます。急ぎの用件とかなら兎も角、大した用でもないのに作業を中断させられたりするのは不愉快です。


 ケータイ時代のコミュニケーションというのは研究対象としては非常に面白いですが、個人的な体験としてはそんなに面白くないです。



補足
 ケータイによるコミュニケーションというのは先に述べたとおり「直結性」をその大きな特徴とします。この「直結性」は時間的なものと空間的なものの2種類があり、前者はいつでもつながる、後者は必ず特定の個人につながるというものです。

 ここで問題になるのは2つの「直結性」が他者との関係構築に当たりどのように作用するのかということで、一見従来的な「障害」がクリアになることによってプラスに働くようでありながらも、現実としては必ずしもそうはなっていないということです。

 ここからコミュニケーションの基礎とは一体何なのかという非常に根源的な問題にまで至る訳ですか、さすがにそこまでやる余裕はないので途中で止めておきます。さしあたり問題として設定したいのは「他者像」の変化です。即ち「他者」というものをどのように捉えているのかという問題です。

 例えば彼氏(彼女でも構いませんが)にメールしたけど1時間たっても返信が来ない。ここで彼女(或いは彼)が非常に不安を感じるとしましょう。それは何故なのか。

 1時間というのは客観的にみればそう長い時間でもないし、何か別のことをしていてケータイが鳴ってるのに気がつかないとか、或いはケータイを手に取れる状況になかったとか、ケータイと物理的に接触できない可能性がある状況が持続する時間としては十分に妥当性のある時間です。また、人間が1日24時間のうちの特定の1時間についてどこで何をしていたのかなんて普通は判らない。極端な話、本人だってよく覚えていないかもしれません。

 ケータイという条件を除いて考えるなら、我々は他者の行動を予測する時に日常の習慣からおおよその見当をつけていました。何時だからまだ学校だなとか、もうボツボツ家に帰ってるだろうとか、そんな具合に大雑把に時間を区切って他者の行動と結び付けていました。

 ところがケータイによって少なくとも技術的には他者の行動を逐一秒単位で観測することが可能になりました。この観測可能性の変化というのが鍵になると思います。特定の観測ポイント、即ち家であったり会社であったりといった特定の場所に依存していた行動観測が、個人の位置そのものをトレースすることの出来る24時間無制限の観測可能性へと変化した訳です。

 <私>による観測の可能性が増加することは、<あなた>の実際の行動の可能性には直接的には関係しません。ところが、<私>は<あなた>の行動についての不安をより強く感じている訳で、これは即ち<あなた>の行動可能性を増加させていることになります。ここで問題になっている<あなた>=「他者」の行動可能性というのは、実際のそれではなく見かけのそれです。<私>の想定する他者の行動可能性ということです。

 ここから解ることは、我々が他者との関係構築において注視しているのは実際の言動だけでなく、自らが想定する他者の行動可能性をも含んでいるということです。この想定の可能性を抑制する機能というのが幾つかあった訳ですが、どうやらケータイはこの抑制機能を弱める作用があるみたいです。