映画とか

 大阪まで「Genius Party」を観に行きました。studio4℃の新作オムニバスで正直よくわかんない系統なんですけど、渡辺信一郎がやる(のが入ってる)というので。河森さんのやつとナベシンのは非常に楽しめました。その他5人の作品に関しては、私のような俗物にはよさがよくわからないということで、それ以上はなんともコメントできません。

 別にアニメに限った話ではないのですが、いわゆる「アートっぽいやつ」ってよくわかんないです。教養もないし、感性も貧困なので、高尚なものは馴染まない性質です。ピンクの髪のねぇちゃんに「俗物が!」と罵られるくらいがちょうどいいというか、B級バッチコイというか…。

 要するに頭が悪いということですが、だからといってどうしようもないので、とりあえず謝っとくしかないです。ごめんなさい。




 で、帰ってきてもう一本映画です。「時をかける少女」。

 しかし、あのサッカーはどうにもこうにも…誤算でした。大誤算です。サッカー終わった時点で半分過ぎちゃってるので、途中から観た人は訳が判らないはずで、そのままチャンネル変えるでしょう。残念です。


 公開から1年経って、累計で15回くらいは観てる訳ですが、いい機会なので時かけについて考えてたことをまとめてみたいと思います。

 脚本、演出、作画がともに一定以上のレベルでよく出来ていた、というのは勿論そうですが、昨今の(「萌え」の)流れからは少しズレたところで作られたというのが、まず最初に思ったことでした。貞本義行のキャラクターデザインなのにパッと見は貞本っぽくない絵柄もそうですが、チチが揺れたりはしないし、転がってもパンツは見えない(笑)。

 「性的なサインの消去」というのは各所で指摘されていたと思います。真琴は「少女」というよりも「少年」に近い存在なんですね。どちらでもあり、かつ、どちらでもない、というのがより厳密なのかも知れません。うまくまとまらないのですが、性別未分化な状態という云い方も出来るかも知れません。だから、恋愛は必然的に成立し得なかった(ある時点までは「女」ではないので)。

 真琴、千昭、功介の3人の関係というのは、やはり、「やおい的な力学=真に対等な関係への志向性」に基づくもの(だった)と解釈するのが妥当なような気がする訳です。

 ここで「やおい的力学」を整理しておきます。現時点でのという留保はつきますが、これは私なりの「やおい的なるもの」の定義に当たります。
 従来「やおい」は「愛の名の下に平等な関係性」を描いてきた訳ですが、この「愛」の関係は通常「恋愛関係」を指します。ここで「愛」の適用範囲を拡大してみて、それは友情であっても家族愛であってもよい(広義の「愛」)ということにします。これでは「やおい」と呼ぶのは(今のところ)語弊があるので、「やおい的なるもの」と指示領域を拡大させた用語を導入することにします。
 他者の承認と尊重が愛の本義ですが、しばしば愛は束縛を伴うものとなります。その相反する二つのベクトルの危ういバランスのギリギリの均衡点が、目指すべき「真に対等な関係」ということになります。究極的な他者の承認と尊重は、非性別的なコミュニケーションにならざるを得ません。相手の持つ様々な属性を全てカッコに入れ、その人をその人自身としてのみ受容する、或いは、その人の部分的な性質を主たる関心とするのではなく、総体として取り扱う場合、うまく云えませんが、自己と他者の間のあらゆる差異化の契機を全て取り除いた後に残るもの同士のコミュニケーションが究極的に対等な関係(これは現実には絶対に到達不可能な地平であることは間違いないが)として成立することになります。ここでは当然性別という差異化の契機は考慮されない訳で、この意味で非性別的であると云えます。
 だから、「やおい」は表面的には同性愛によってその平等性が担保されるものの、その奥には非性別的関係への志向性が存在していると云えます。
 とりあえず、「やおい的なるもの」とは究極的に対等な関係を目指し自他の差異化の契機を可能な限り減ずる運動が認められるものである、と定義しておきます。(この辺はまた今度詳しく論じることになると思います。)

 で、時かけに戻ると。「性的なサインの消去」は彼らの「非性別的コミュニケーション」と密接に関係していることが解ります。少なくともある時点までの真琴の自己認識は、「ずっと3人でいられるような気がしてた」という台詞からも伺えるように、3人の関係を(ある程度)互いに対等な非性別的関係として捉えています。だからこそ、その関係を壊す「恋愛」という要素を排除しようと画策する訳です(結果的にそれは失敗しますが)。

 この「やおい的力学」は先に見たように、根源的な部分で絶対に実現不可能なものを抱えており、その意味でファンタジーとしてしか成立しないという側面もあります。(これは経験可能領域の絶えざる拡大の最果てが積極的には存在しないという資本主義の根源的な空虚さと似ているかも知れません。)勿論、物語というものはおよそそういうものなのですが。

 そして、時かけはファンタジーであると同時に、見るものにとってはノスタルジーでもあるという事実は否定できません。過ぎ行く時間の不可逆性という絶対的制約の前に、我々は儚く涙するしかありません。芳山和子が語るようにタイムリープはある年代の少女にのみ許された特権であり、我々にはその自由はありません。ありえたかもしれない過去の自分を思い返すのが精一杯で、それ以上のことは何も出来ません。
 であるにもかかわらず、少なくとも表面上は懐古趣味的な作品になっていない(さらに云えば色々な意味で非常にバランスのよい作品であること)というのが、この作品の傑作たる所以なのかも知れません。

 素直なエンターテインメント(でかつ泣かせるような)映画がそれほど多くないというのは、やはり悲しいことですね。(少なくてもあるだけマシと思うほうがいいのかもしれないけど)