恋愛には向かない人々

 麻生みこと『天然素材でいこう。』を読み終えたところで何か書いておこうということで、ものすごく久しぶりな更新になります。云い訳さしてもらうと、ここのところ忙しくてそんなにマンガを読んでなかったのです。(忙しい忙しいと云うやつに限ってヒマ、というつっこみはナシの方向で…)

 文庫の発刊に合わせて4ヶ月という時間をかけてゆーっくり読んで来たのですが、「伝説の”のほほん”漫画」と帯に書かれる本作にはちょうどいいペースだったかも知れません。

 終盤の展開(二美と高雄氏の別れ)に関してはある程度想定の範囲内ですが、恋愛「出来ない」人を少女マンガの主人公にしてしまったというのは、ものすごいことだと改めて思いました。ちなみに亀岡二美と高雄氏がうまくいかないのは設定の段階で既に暗示されているのですが、皆さんお気づきでしょうか。この作品登場人物の名前(苗字)が京都の地名(ないしそれに準ずるもの)からとられているのですが、レギュラーの中で唯一京都市内の地名ではないのが主人公である亀岡二美その人なのです。そういう意味でははじめから仲間はずれ。以下名前からの考察を少しはさみます。

 出来れば京都市区の地図を合わせて見て頂きたいのですが、ごく大雑把に云うと、高雄は北西方向、三千院は北東方向でそれぞれ町のはずれに位置しています。亀岡市京都市の西隣ですから、二美‐三千院はかすりもしない。北大路というと道ですから厳密には位置を特定しにくいものの、およそ町の北側だとすると三千院との位置関係は比較的近い。尤も、地理的に最も近いのは一乗寺なのですが…。三千院一乗寺ラインは映画という共通点が無い訳でもない(もうほとんどこじつけ)。翻って西側を見てみますと、嵐山ですね。ここは保津川で亀岡とつながってますから、美晴と亀岡兄の関係には納得。ただ千津の苗字は伏見でしたから、実は高雄との関係は微妙です。北と南で真逆の位置取りです。

 名前のマッピングに関してはヨタ話ですからどこまで信用できるものか怪しいのですが、少なくとも「亀岡」のネーミングに関しては京都市内/市外を意識しているはずです。麻生みことはとことんロジックの人なんじゃないかと思います。

 このロジックというのが曲者と云うか面白いところで、二美‐高雄の関係が(もっと云えばこの二人に限らず)恋愛としてはやけに思弁的なのです。この人たちは明らかに恋愛に向かない。本人が自覚しているという作風「セリフが多い」というのも、そういうところから来ていると云えます。

 そう考えるとタイトルの『天然素材でいこう』というのもなかなか興味深い。初めは二美のマイペースな性格やいわゆる天然な感じが想定されているように見えるものの、最後まで読むと実はそうではなかったのではないかと思えてくる訳です。二美は厳密なロジックの積み重ねで行動しているのであって、何も考えてないという意味での「天然」とは似て非なる存在であることが次第に明らかになり、このロジックがあるがゆえに「恋愛」は出来ない。

 「恋愛」が出来ないままに終盤に突入し、二美は高雄に別れを告げられた後に初めて「恋愛」の領域に参入します。しかしそれも一時的なもので、すぐに「復活」してしまう。これを「強さ」と呼ぶかどうかは見解が分かれるかもしれませんが、「恋」とは異なる「好き」の可能性という点では非常に興味深いです。

 そういう内容的な面での面白さも勿論ですが、後半の洗練されたコマ割り(コマ内部の構図も含めて)も見物です。或いは時代的な流れなのかも知れませんが、並べて読むとものすごく進化しているように見えます。


 この人は平成3年(1991年)デビューということなので、おそらく1971年前後の生まれです。同じく白泉社系の津田雅美松下容子なんかと比較してみるのも面白いかも知れません。熊本出身って松下と同じですね。メロディは執筆陣の年齢層が高そうですが、案外若い人もいるんですよ。(てか上と下のギャップが大きい…)