「少女趣味」の系譜

 稲垣恭子『女学校と女学生』(中公新書、07)を中心に主として戦前期の少女文化、少女表象についての研究書を幾つか読んでみて、現代の少女マンガへの連続性を強く感じさせられました。

 例えば「文学少女」というイメージについて、これに(男性が)憧れる場合も嫌悪感を抱く場合もいずれにしても情感や気分に左右されやすいエモーショナルな存在が前提となっており、「文学少女」は知的で思想的な深みを持った「一流」の読者階層と区別される「二流」の読者階層の表象であった。しかしその一方で、教養主義的な読書とは区別される「感傷的」で「内向的」な女学生イメージの中で、当の女学生たちは自由な読書により知的好奇心を広げ、女学校生活の現実や予想される将来(具体的には結婚)から距離をとった独自の世界を創出した、という訳です。

 ここから想起するのは、一部の少女マンガに「文学性」を「発見」するという図式であり、また一般的な少女マンガへの批判的なイメージであります。70年経っても根本的には何も変わっていないように見えます。

 ただここで注目したいのは、そういった外部的な視点(端的には男性知識人:前掲書では少女小説や女流作家に対する小林秀雄川端康成の発言が引かれています)からの批判や揶揄の内側で、その対象たる「文学少女」=女学生たち自身は、制約された「現実」を相対化していくような実践が可能だったという点です。

 女学生の手紙や少女小説に典型的な「女学生ことば」によって構成された世界や一連の女学生文化・少女文化の中には、外部的に構成された言説空間に依拠しながらも同時にそれをすり抜けていくような側面があり、そこで志向されたのは「エス」に代表されるような憧れと思いやりを軸とした互いを慈しみあう対等で親密な関係であったと云えます。

 ここから少し飛躍しますが、私自身の当面の関心である「やおい的思想」(暫定的な定義としては「性別や見かけの親密度とは関係なく相互に自律的な個を認め合う真に対等な関係性を志向する立場」としておきます)という文脈に接続するならば、少なくとも「真に対等な関係性を志向する立場」という点では共通する訳です。ですから、「少女」なる概念が近代の産物であることを踏まえれば、戦前期の少女小説・少女雑誌の世界から戦後の少女マンガの水脈を経て「やおい」までを統一的に解釈するキーワードの1つとして、「現実の相対化」が挙げられるのではないかという訳です。

 尤も「現実の相対化」では少々漠然とし過ぎているような気もします。しかし、小説/マンガという媒体の差異をも乗り越えて考える以上は、それぞれのメディアに特有の形式に依拠した特徴では不十分であり、横断的な適用に耐えうるには抽象度が高くなるのは致し方ないと云えましょう。この点はまだ大分検討の余地があるようです。

 これを外部的な視点と合わせてジェンダー論的に処理するというのは解りやすくはあるのですが、私としてはそういう立場では論じたくないという気持もあります。

 制約された「現実」を相対化する方法というのは1つではなくて、理想形をぶつけるというのも1つの方法ですし、また外部的な視点からの「幻想」を逆手にとって「リアル」をぶつけるという方法もありましょう。いずれにせよ「相対化」ですから、原理的には何らかの囲い込み(外部的な視線)が存在する以上は、どういう形であれ、相対化の契機は常に開かれていると云えます。

 ですから少女マンガというカテゴライズが真に無効になった時というのは、「少女」概念の失効が宣言された時であり、或いは「近代」の終焉なのではないかとも思う訳です。(私は「近代」が既に終わっているという立場には与しないので、これは未来の話です)