少女マンガ研究会 第18回読書会レジュメ 08 5/17

課題図書:新井理恵LOVELESS小学館、2001-02
発表担当:紫呉屋
  
1)作品データ
 初出:デラックス別冊少女コミック00年6/5号〜02年4/5号
 2年間隔月連載を休まず続けるも雑誌再編のあおりで終了

 単行本1巻01年6/20、2巻02年8/20 初版第1刷発行

 高河ゆんの同名作品(あちらは「らぶれす」こちらは「ラブリス」と読むので厳密には同じではない)は01年〜なので、こちらの方が時期的に早い

 とりあえずは学園ラブコメというカテゴリーになると思うが、どちらかと云うとストーリーギャグという呼称の方がしっくりくるかも知れない


2)作者データ
 1971年9/14生まれ、栃木県(宇都宮市)出身
 1990年別冊少女コミック平成2年11月号増刊掲載『ご笑覧ください』でデビュー

 その他の作品
  『×‐ペケ‐』小学館、90〜99年…4コマギャグ
  『脳髄ジャングル』小学館、92〜96(?)年…ストーリーギャグ
  『子供達をせめないで幻冬舎、96〜02年…シリアスラブストーリー
  『女類男族』小学館(ヤンサン)、97〜98年…ラブコメディ
  『ケイゾク/漫画』角川書店、99〜00年…原作付き、刑事もの
  『タカハシくん優柔不断』角川書店、00〜01年…シリアスラブストーリー
  『青の炎』角川書店、03年…原作付き、ミステリー
  『うまんが』『ろまんが』小学館、00〜08年…ストーリーギャグ
  『M‐エム』 幻冬舎、04〜連載中…実質的には『タカハシ』の語り直し


3-1)新井理恵に関する先行研究
 七尾藍佳「剥き出しの少女・ギャグ・マンガ 新井理恵『×‐ペケ‐』をめぐって」(『ユリイカ 2005年2月号 特集*ギャグまんが大行進』p.130〜137)より

<アンチぶりっこ>という態度:過剰な現実性をつきつける
<少女>=<清/聖>を<汚/穢>へ転覆…90年代の価値転換を生々しく体現

『×‐ペケ‐』がウケた理由
 1)手法自体の新鮮さ…少女マンガでは一般的なギャグが描かれていなかった

   ⇔ギャグというジャンルに親しんだ者には古典的に映る(先が読める)ネタ

 2)反抗精神の体現…美しくない日常の共有、リアルな自己の表象
           →理想と現実の乖離を共感させるガールズトークとしての笑い
           <少女>たちのシニカルで批判的な自己検証

    ⇒少女マンガの自己改革、1つのフェミニズム運動としての理解

『×‐ペケ‐』がだんだん面白くなくなる理由
 1)ネタ切れ…パターンの固定化→マニアックなネタへのシフト

 2)シニシズムの進展…ダークになり次第に笑えなくなる


『×‐ペケ‐』は作者自身の成長に伴い終わらざるを得なかった
作者の心情が剥き出しになっていく過程は少女マンガ・ギャグマンガの枠を超えるドラマ性を獲得

「排除」の無意味さを露呈させる面白さは「権威」の有効性が担保となっている
  →『×‐ペケ‐』の引力が今では消滅


3-2)七尾論文に対する考察
 一般的な『×‐ペケ‐』理解として相当の妥当性を持つものの、フェミニズム文脈からのみの理解では不十分ではないか。

 『×‐ペケ‐』後期において加速するシニシズムは本当に笑えないのか。(マンネリの問題も含め)

 個人的な見解としては、後期の(4コママンガとしての)自己崩壊のプロセス自体を含めた笑いを高く評価するが、賛同者は余りいない。


4)登場人物の名前
 ほとんどが騎手からとられている
 モデルとの性格、外見の類似は特に認められない

 登場人物/モデル
 後藤浩之/後藤浩輝
 和田竜一/和田竜二
 福永裕司/福永祐一
 牧原勇気/増沢由貴子(旧姓牧原、06年結婚)
 勝春/田中勝春
 渡辺薫香/渡辺薫彦
 蛯名/蛯名正義
 武田優希/元ネタ不明
 松永操/松永幹夫


5)様々な過剰性
 一般的な少女マンガ(というものを便宜上設定する)に比べ幾つかの点で過剰

 セリフの過剰性…作者自身も語るようにセリフが多い
 アクションの過剰性…ジャンルの特性上当然だが一々オーバーリアクション
 暴力の過剰性…殴る蹴るは云うに及ばす武器の使用もある
 液体の過剰性…涙、血液、尿:暴力との関連→吐血、流血…『×‐ペケ』から継続


6)下ネタについて
 下ネタは新井理恵のキャリアの最初期から確認される(『小説June』掲載の初期4コマは基本的に下ネタだし、『×‐ペケ』でも「僕の保健室へようこそ」シリーズは初期から一貫して下ネタである)が、本格的に多くなるのは『×‐ペケ』後期(1995年頃)である(要検証)。リアルタイムでの読者の反応のひとつとして、下品なので読むのを止めるというものもあった(ある知人の証言)。しかしその一方で、新しい読者を獲得していったことも想像に難くない。『LOVELESS』が売れていたという作者自身の言葉(2巻p.160)だけでなく、08年現在も作者が第一線で活躍している事実がそれを裏付けるだろう。

 『日常茶番事』(小学館、95)収録の「おどる亀ヤクシ」(『小説June』91年2月号掲載)のコメントに「私は下ネタが好きなわけではない キレイゴトが超嫌いなだけだ」とあるように、かなり自覚的に(戦略的に)下ネタを用いている。

 少女マンガというジャンルから最もかけ離れた場所にあると思われていたもの(オトメ⇔オヤジ)を取り込むこと=少女マンガの自己改革は『×‐ペケ‐』に限った話ではなく、新井理恵のキャリアに通底するものである。


7-1)ラブストーリーの変調
 メインの男の子(主人公の相手)がストーカーとして取り扱われるという前代未聞の設定(これは後に『ろまんが』でも用いられる)もさることながら、主人公である渡辺薫香の恋愛観は少女マンガの文脈において非常に特殊

 過剰な性(下ネタ)が表層に横溢する一方で現実問題としてのセクシュアリティを忌避する回路により、下品さとプラトニックラブという両極が矛盾無く同居

 薫香-後藤の2者関係のラブストーリーとしては実質的に第1話で完結しており、全体としては薫香を狂言回しとして様々な愛の形を多面的に描出するオムニバス的な構成


7-2)各話分析
 第1話…「女の子(共同体)」特有の楽しさを阻害する<友情/恋愛>の相克
      薫香の恋愛観:空想的産物としての恋愛、生々しい現実の忌避)

 第2話…恋愛不能体質の再確認、<友情/恋愛>関係の再確認→少女の「個」
      変態(エロオタク)男子の恋愛機能不全

 第3話…生々しい現実(性の問題)への抵抗:表層的な意思表明と本心のズレ
      装いとしてのモテ志向/(恋愛不能をも含む)ありのままの受容

 第4話…センチメントの季節=非恋愛(「性欲の秋」に内在する愛の不可能性)
      男の(惨い)現実→真実の愛の多様性、「素敵」恋愛の相対化

 第5話…ロマンティックラブの理想と現実→「愛」なんてものは存在しない

 第6話…転倒する高校デビュー:装わないことを目指すイメージチェンジ
      真実に基づく人間関係の構築(「優等生」自己解放として頻出)

 第7話…性別を越えた「友情」
      友情の「片思い」、「好意」のみでは良好な関係は担保されない
      真に対等な関係性を志向する「やおい的思想」の表出
      「やおい的思想」:男/女という根源的他者性の自明性へのアンチテーゼ

 第8話…恋愛感情を含まない「好き」:セクシュアリティを超越した<連帯>
                →様々な<属性>を脱色した純粋な「個」への志向性

 第9話…男の側から語られるセクシュアリティの問題
       自然な関係:第3話のモチーフの変奏

 第10話…フツーの「女の子」らしさへの違和感:第4話のモチーフの変奏
        恋愛機能不全を前提とした「恋愛」関係

 第11話…夢(理想)を押し付けることの暴力性
        夢を追う男の自己中心性

 第12話…多様な「愛」の形


8)総括
 既存の少女マンガ的文脈からの逸脱(ラディカル少女マンガ批判、イデオロギー破壊)であると同時に、「やおい的思想」に根ざした新地平を開拓する試みでもある。セクシュアリティをも超克しようとする男女関係の模索自体は『×‐ペケ』の「高校落書」・「高校教諭」シリーズにその萌芽を見出すことは出来るし、もっと云えば『LOVELESS』の問題意識はその殆どが新井理恵のキャリアのどこかの時点で表明されている。1巻p.128での作者の言葉を額面通りに受け取るならば、『LOVELESS』は全ての新井作品に先立つ存在であり、作家のキャリアを通底する問題意識がそこに現われ、またそれぞれの作品の中に同種の問題意識が確認されるのも道理である。その意味で、特に少女マンガギャグというジャンルにおいてなされた革新運動(少女マンガの自己改革)の系譜を考えるにおいて『LOVELESS』という作品を題材とするのは最適であろう。

 男同士の関係を描く「やおい」という一般的な理解に対して、必ずしも男同士である必然性は無いという主張も存在している(第9回読書会でも取り上げられたメロディのよしなが羽海野対談など)。この「やおい的」な、そして同時に「脱やおい的」な関係性の描出を企図する作家(新井理恵よしながふみ)が共に1971年生まれであることは特筆に価する。
 これらの事情を踏まえ、「やおい的思想」とは「性別や見かけの親密度とは関係なく相互に自律的な個を認め合う真に対等な関係性を志向する立場」ということでとりあえずは定義できるのではないかと考える。


 少女マンガギャグの歴史における位置付け→にざかな池山田剛など


9)課題
 小学館系作家という文脈での理解(絵柄の影響関係等)→羅川真里茂問題


10)補足/羅川真里茂問題
 『×-ペケ-』1巻p.20右側の「少年」は、枠外の「某誌のM・Rちゃんありがとう」と3コマ目の「ふらわー あんど どりぃ〜む」という書き込みから羅川の手になるものと推測できる。この時点(91年)では結構仲がいい様子(この2人は歳も近い)だが、『×-ペケ-』の中で度々登場する嫌いな漫画家は羅川真里茂だと噂される。(参考:脳髄ジャングル‐新井理恵ファンサイト‐ http://loveless.s194.xrea.com/arai/arai_pro.html



読書会を終えての追加記述
 各話のラストになされる「まとめ」は本編での描写とは裏腹に極めてオーソドックスな少女マンガ的言明である。少女マンガの枠組みを相対化していくような企図の裏には、そう思いながらも少女(マンガ)的ロマンチシズムを捨てきれない新井理恵の姿が見え隠れする。
 否定形を経由して語られる少女マンガ的テーゼの真相(深層)には、読者に対しての優しさを忘れない新井理恵の矜持がある。私は常々「新井理恵を男が読むという行為は、一種のSMである」と主張しているが、女王には女王たる資格というものが厳然と存在し、また下僕には下僕の資格がある。ある種の信頼関係、或いは共犯関係の中で我々は女王様に一生ついていく覚悟である。これはまさしく『LOVELESS』で語られる所の後藤と薫香の関係に他ならない。
 少女マンガの新地平には、<暴力>を媒介項とした「優しい」世界が待っている。勿論これは1つの比喩だが、逆説的な言明によって描かれるのは複雑な「新しい関係性」への可能性である。