春休みの成果

 マンガばっかり読んでたので、色々書きたいけど、すこしづついきたいと思います。とりあえず覚えてる範囲でタイトルだけ。


 篠原烏童「不法救世主」「セフィロト」、紫堂恭子辺境警備」、成田美名子「みき&ユーティ」、吉野朔実「記憶の技法」、柳原望「お伽噺を語ろう」、山田章博Beast of East」、わかつきめぐみ言の葉遊学

 あと昔のアニメージュ(83年ごろ)、ぱふ(92、97、00ごろ)、プータオ(00)も何冊か仕入れてきた。個人的には92年のぱふが最大のヒットで、グリーンウッドの五冠にはかなり驚いた。いい時代ですよ。


 「お伽噺」シリーズを読んでて思ったのだけれど、種って少女マンガ(この場合悪い意味で)だったんだと納得した。これはおとつい今月号のアニメージュの読者欄を読んでいて、ほぼ確信に変わった。一言で云うならば、ガンダムである必要はなかったということなんだけど、しかし、ガンダムのフォーマットに乗っかったものでなければアレほどまでに売れることもなかったのだろうとも思う(男の子を取り込むという点で)。
 この場合の悪い意味での少女マンガ的なるものとは、簡単に云ってしまえば「ご都合主義」ということになるが、そういった予定調和というのは何も少女マンガ特有のものではない。ご都合の中心が(主人公級の人々の)恋愛感情というごく限られた人間関係においてのみ有意味な(特殊な)関係性にあり、物語世界においては事実上すべての現象がその一点に還元しうるものとして生起する。(と云い切るのは語弊があるが)この意味での「ご都合主義」を暫定的に「悪い意味での少女マンガ的方法論」と名づける。

 ここで誤解してほしくないこととしては、私自身は「お伽噺」シリーズは嫌いじゃない(てかむしろ好きですよ)ということです。夢とロマンは少女マンガの信条ですから(勿論それだけじゃあないんですが)、姫様が世界の中心であっても何の問題もありません。また、仮にそうであったとしても(物語の)世界に破綻はないようにきちんと描かれている訳で、この意味において「真っ当」だと云えましょう。

 で結局何が云いたいかというと。この「少女マンガ的方法論」とガンダムにおいて表象されるリアルロボットの世界とが根本の部分でなじまないものだということであります。リアルロボットの最大の特徴は物理的困難の認定にありましょう。兵装は物理的な限界を持ち、戦闘部隊への補給がきちんと描かれる。これを以ってガンダム(ファースト)がそれまでのロボットアニメと一線を画すというのが定説(というか富野自身もこの旨の発言をしている)であるし、私自身もそう思う。個人的にはガンダムアクシズハマーン様の物語だと思うけど、本当に個人的な話なので今回はパス。
 話が逸れたので元に戻すと、この物理的困難は「ある程度」の節度を持って一貫性が保たれることにより物語世界の上での破綻を回避することが出来る仕組みですが、これは現象が理論に還元されるということです。であるならば、感情に基づく世界構築とはどこかで齟齬をきたすのはほぼ自明でしょう。なじまないものを無理矢理混ぜ合わせた結果、売れはしたものの実にイビツなものが出来上がってしまったように思います。

 思うに、ガンダムはそのシリーズを重ねるに従いこの「理論」の部分を犠牲にしてきたような気がします。21世紀ついに(悪い意味での)少女マンガにまで至ってしまったというのは、ある意味では必然であるものの、矢張り悲しくもあります。或いはこれも織り込み済みで「悲しみの物語」なのかも知れません。