ようやく

 読みました「地球へ…」。さすがによく出来てるのは勿論なので、内容についての言及は余りしませんが、ラストに関して一点だけ。

 やや乱暴なまとめかもしれませんが、自然/人為の究極の選択という場合に人為を排するということで、ナウシカのラストを思い出しました。ここに共通するのは一種の進化論的楽観論ということが出来るかもしれません。また世界の秘密ともいうべきものが二段構えになっている点も共通しています。

 人類再生の要とされるシステムが一種の亡霊として人々を支配し世界を何処かへ導くが、それ自体が何者かによって作られたものである、つまり人為であるという点において既に何らかの問題を内包しているというのは、極端に云えばある種の性悪説に基づくもので、これを排するというのは或る意味で諦観によるものでもあります。

 科学という名の人為を盲目的に信じることが出来なくなった時代の科学的思考というのが逆説的に自然への回帰をもたらすということでしょうか。しかし、ここで考えなければならないのは、ここで云う「自然」が一体どういうものなのかということであります。

 実は「最終的な選択において人為を排すること自体が人為でしかない」のです。ただ、一方でこうも云えます。そういう「選択をしてしまったという意味では自然な現象である」と。

 すこしややこしいので詳しく見ていきます。まず前者の命題について。

 人為に基づくシステムを残すのか捨てるのかという選択を迫られた時に、登場人物たちはどちらを選ぶにせよ「選択」という主体的な行為をしていることになります。これは行為である以上人の為すこと即ち人為です。であるならば、人為かそうでないかという点についてはどちらを選んでも等価(等しく人為である)だと云えます。

 後者の方はどういうことかというと。

 先に選択を迫られると述べました。この時点でどちらかを選び取るという行為を実行に移すことは不可避の未来となっていることに注目せねばなりません。二者の選択を迫られるという状況は、どちらも選ばないという選択肢を採用する自由を原理的に許しません。なぜなら、選ばない=他を選んだという関係が成立するからです。ですから、この状況下では選択を行うこと自体が不可避であり、この点に選択の自由がない(選択を行わない自由がない)という意味で、どちらを選んでも等しく自然な(人の手の及ぶ範囲にない)ことであるといえます。


 ここで考えていることは我々の一般的な感覚に基づく人為/自然とは異なります。しかし、言葉を厳密に捉えると上の議論もあながち的外れという訳でもないと思います。結局のところ、一般的に考える人為/自然というのは普遍的なものではなく、社会的に構成された概念に過ぎません。ですから、物語の提示する「自然」(への回帰)には社会的な規範意識のバイアスがかかっていることは否定できません。重要なのはむしろそこ(人為/自然)ではなく作品全体を通して表現された人間観とか歴史観の方なのかも知れないとも思います。


 とりあえずまとまりの悪い文章ですが、今回はこのくらいで。