やおい的なるものとは何なのか

 前回の続きのような形になります。一応榎本ナリコやおい論がどういうものなのかという話から。知ってる人は読み飛ばしてもらって構いません、ちょっと長いので。人間固有の<社会性>を考える上での<他者>に絡めて彼女の説をこのように解釈したというような文章です。ちなみに大澤さんの講義のレポートとして提出したものの後半です。

 

 ここからは少し視点を変えて、或る文化的現象について具体的に考えていきたい。それは講義の中でも少し触れられた「やおい」という現象である。この議論に入る前に少し整理しておきたいことがある。「やおい」というと特定のマンガ・アニメの登場人物を用いて同性愛関係を二次創作する行為のことをさすが、よく似た意味の言葉として「ボーイズラブ」がある。両者は共に男性同性愛を描くという点では共通するため、しばしば混同されるが、厳密には異なる(と主張する人がいるし、私もそう思う)。マンガ家の榎本ナリコによれば、「やおい」はあくまで元となるオリジナルが存在する二次創作としてのそれであり、「ボーイズラブ」はオリジナルとしてのそれであるというものである。以後、この定義にしたがって議論を進める。「やおい」はその起源に「ヤマなし、オチなし、意味なし」があるといわれているが、現在の「やおい」は作品としての完成度が高まりヤマもオチも意味もあるらしい。しかし、問題は実際に品質が劣る(劣っていた)ということ自体ではなく、その「やおい」というネーミングの中に自らの行為を相対化するまなざしが含まれているということである。これと同じことは「腐女子」という自称にも云える。女性のオタクは(その全てではないにせよ)その出発地点において既に相対化の契機を伴っているのである。
 「やおい」にせよ「ボーイズラブ」にせよ、これらの現象を語る上で欠かせないキーワードが「関係性」である。共に性的な何かを描くことを含んでいるが、男性向けのエロマンガのように性的なもののみ(と云い切ると語弊があるかもしれないが)を描こうとはしない。性行為そのものよりもそこに至る過程、すなわちキャラクター同士の関係性の描写が重視される。この関係性への志向性は、カップリング(作中のどの二人をカップルとして認識するか、さらにはどちらが「攻め:入れる方」でどちらが「受け:入れられる方」かということも含む)で揉めるという「やおい」愛好者の行為の中にも顕著である。或るオリジナル作品のファンが、それぞれの嗜好に基づく固定的・限定的な関係性を志向し、その一点において<他者>と対立するということである。この現象は男性のオタクの場合まず起こりえない。彼らは一般に作品やそのキャラクターの設定(世界観)を絶対視する傾向がある。その世界に意味を見出すものだけがファンとしてある種の共同体を構成し、そこではアンチの存在は許されない。つまり<他者>が否定・排除され、ひとつの「世界」が構築されるのである。この意味において彼らは「同一性」を志向していると考えられる。
 このような違いは二次創作における男女の姿勢の違いにも現れる。やや極端な云い方をすれば、女性の二次創作におけるオリジナルの必要性はキャラクターの「関係性」を根拠付けるという一点に集約される。このため、オリジナルの舞台設定が全く無視されているかのような二次創作がしばしば登場する。一方男性の場合は、設定が非常に重視される。愛着のあるキャラクターについてエロが成立しさえすれば相手は割りとどうでもよい、にもかかわらずキャラクターの所属集団や舞台となる時代・地域等が変更されることはほとんどない。それらについて変更があった場合でも、オリジナルとの関連が明示され、云わば世界は地続きであることが前提となる。
 この「関係性」への志向性を考える上で参考になる議論として再び榎本ナリコ野火ノビタ)の「やおい」論を見てみたい。「やおい」に見られる欲望の構造は以下のように捉えられる。まず、女性である「やおい」愛好者は「やおい」ファンタジーカップルに対し(肉体的には)完全に第三者である。この意味では、「やおい」は覗き趣味的側面を持つことになる。その一方で、読者は自己を投影し心情的には彼らに同化している。攻めへの同化、受けへの同化でそれぞれに異なる構造を持つが、ごく単純化すると「愛する(犯す)」のも「愛される(犯される)」のも彼女自身であるという閉じた回路を形成する。結論だけ云えば、「やおい」を読む(消費する)という行為は、受けとして愛されたいという欲望、攻めとして愛したいという欲望、愛し愛されるという関係性自体への欲望の三つの欲望から成っている。さらに「やおい」を描く(生産する)という行為には愛を操作したいという支配への欲望も追加されることになる。
続いてなぜ男同士の恋愛でなければならないのかという問いに対する考察が行われる。これも結論だけ述べると、男女の関係の場合には少なくとも肉体的には欲望する者(主体)と欲望される者(客体)という固定的で非対称の関係になってしまうが、同性の場合は愛の名の下に純粋で完全に対等な関係性を構築可能であるということになる(この意味では女同士でもかまわないし、その意味で「やおい」的な作品も存在する)。この(肉体に根ざし精神的にも)完璧に対等な関係性は現実にはありえない(と考えられている)からこそ「やおい」というファンタジーによって経験されるほかないということである。
やおい」の構造のまとめとして受けと攻めがそれぞれに二重の意味を持っているということが語られる。それによれば、受けとは女性により去勢され欲望する主体から欲望される客体へと変容させられた男性であり、と同時に女としてでなく(性別を問題とせずに)自分自身として完璧に愛されたい彼女たちの理想像でもあるという。対して、攻めは男性から奪い取ったペニスを自ら装着し欲望される客体から欲望する主体へと成り代わった女性であると同時に満たされぬ愛を補完する憧れの王子でもある。このどちらも(受けも攻めも)が「やおい」読者たる彼女自身であるという意味で「やおい」は自己完結した閉じた回路である。しかし、閉じているからこそ、そこを循環する愛は完全になりうるのである。この二重性は筆者によれば、自らの女としての肉体および立場を男性のそれと比べて不全であると認識し、それゆえに対等な関係において愛されることを切望しながらも同時に失望してしまったことに始まるダブルミーニングだという。
 一連の分析の結びで彼女はこれが個人的な見解で「やおい」を愛好する女性一般に必ずしも妥当するものではないと留保をつけている。しかし、「やおい」の構造・原理を分析したものとしてはこれ以上に明晰に理論化されたものを私は知らない。思えば榎本ナリコというマンガ家はそのマンガ作品を通じて一貫して精神と肉体の違和(身体に内在する本質的他者性)という問題を描いてきたように思われる。それは彼女が女性だから、もっと云えば「やおい」愛好者だからなのかなのかは判らないが、少なくとも人間固有の<社会性>を考える上で重要なヒントを与えてくれるような気がする。


 で、前回からの流れに戻ると。ここで云う「愛の名の下に純粋で完全に対等な関係性」が、前回引用したよしながふみの発言を踏まえた上で見ると、やおい的なるものの最大公約数のようなものなのではないかということになる訳です。榎本ナリコの分析するような欲望の構造や受け攻めの二重性という側面も否定されるべき類のものではありませんが、彼女自身が留保をつけるように全てのやおい愛好者に妥当するかというとそうではないでしょう。ここでより妥当性の高い、云わばやおい的なるものの核となる特徴を考えると、「真に対等な関係への志向性」がそれに当たるのではないかと思います。とりあえず、これの有無を以ってやおい的なるものの最も緩い定義としておきます。


 この「真に対等な関係への志向性」を考える上で、ぜひ比較してみたいのが少年マンガの力学であります。話を解り易くするために、ジャンプで代表させて考えます。以下余り厳密な議論ではありませんがご容赦ください(お前のはいつだって厳密だったためしがないとかいうつっこみはなしで)。

 ジャンプ的なるもののイメージは、ドラゴンボールなんかを真っ先に思い浮かべると思います。違うと云う人もあるとは思いますが、ここはそういうもんだと思って下さい。ここで重要なのはジャンプ的なるもののイメージとしては「強さへの志向性」が一般的だということです。主人公の成長(旅程の進行)とともに敵がどんどん強くなるというアレです。この「強さへの志向性」はしばしば『過剰』であることも加えて指摘しておかなければなりません。後の議論の為に云っておくと、この過剰なまでの強さへの志向性を「大山マス的なるもの」と呼ぶことにします。
 少年マンガ的な「強さ」の力学が支配する世界というのは妙なもので、主人公側の人間関係と敵側の人間関係が全く違うあり方を示すのが常です。どういうことかというと、敵側は大抵「強さ」の序列に従い組織化された、云わば主従のはっきりした対等でない人間関係の総体として描かれることが多いのに対して、主人公側は基本的に主人公が一番強い(潜在的な力を持つ場合も含め、結果的に何らかの意味で最強であることが保証される)にもかかわらず、たとえ形式的には主人公が上の立場(海賊船の船長とか)であったとしても、「仲間」という言葉に象徴されるようなフラットな関係が結ばれます。多くは男同士の集団ですが、たとえばワンピースなどでは女性や動物も戦闘集団の構成員であり「仲間」です。「仲間」は普段はそんなに仲がよさそうには見えない組み合わせでも、いざという時には互いに助け合い困難に立ち向かいます。
 ここまで来てカンのいい人はもう判ったと思いますが、ここにやおい的なるものの萌芽、つまり対等な関係性の基盤が既に存在していることは直感的に理解出来ます。ジャンプがネタになるというのも道理ということになります。サンデーではなくマガジンでもなくジャンプ。(あくまでイメージの話ですが)ジャンプイデオロギーにはこういった秘密もあるのではないかと考えます。

 先ほど「強さ」の世界の人間関係を妙だと云いました。これはよいという意味ではなく違和感を感じるという意味(それが悪いと云っている訳ではありません、念のために)で用いています。どういうことかと云いますと、これは主人公側と敵側の人間関係の結ばれ方の違いとも関係あることですが、我々の世界での「強さ」への志向性は通常何らかの野望を伴います。我々の日常的な生活の中での「強さ」は、それがいかなる種類のものであれ、他者への優位性を担保するものとして志向されるのが普通ではないかと、そう考える訳です。云うなれば「強さ」は目的でなく手段に過ぎません。だから、他者との優劣を確定する要因の「強さ」が支配する世界での対等な関係性(やその萌芽)が違和を感じさせるのでしょう。しかし、この違和は当然といえば当然で、反現実のファンタジーを肯定的に担う主人公サイドが、現実的な関係性の誇張の産物であるところの巨大な敵と闘うというのは、極端な云い方をすれば既存の秩序の破壊でもあるということになります。さらに、自己目的化した「強さへの志向性」というのも手段としての「強さ」という敵方の理論とは対照的で、これも違和感の要因の一つかとも思います。
 あえて「違和」という(ネガティブな)書き方をしましたが、「少年」が少年マンガを読むということは、一面において現実的な「強さ」の支配という楔を断つことの出来る更なる『強さ』の希求なのかも知れません。その『強さ』は実はやおい的関係性(「真に対等な関係性」)を内包している訳ですが、「少年」はそんな事はちっとも考えていません。しばしばそれは単なる過剰なまでの「強さ」として無批判に受け入れられているのではないか、そのような短慮も含めて「大山マス的なるもの」として「少年」にとっての少年マンガの基本構造を理解したいと思います。



 別に少年マンガが悪いとかそういう話ではないので、悪しからず。あと大山先生を非難している訳でもありません。個人的にはそういう気にはなれないというだけです。だから少女マンガの方がしっくりくるのかなぁ。しかし、一口に少女マンガと云っても色々あるので、個人的にはこれはどうなんだろうというのは結構ありますが。