「やおい」の定義

 メロディ4月号。よしながふみ羽海野チカの対談記事が面白かった。

 ライバルだけど認め合ってる関係。男女関係なく、見た目仲良くないんだけど、お互いの力を認め合ってて、それでその人が本当に困ったときには手をかしてやるような関係みたいなものを、私らはやおいと呼んでいて。

 こういう定義もあるのかと膝ポン。自分にとってのやおいの定義は榎本ナリコやおい論(「大人は判ってくれない」日本評論社、03)によるものなので、全くこういう定義は想定していなかった。ただ、やおい的関係性の上で再三強調されていた「対等」というキーで見ていくと、必ずしも男同士である必要性はないし(これについては榎本ナリコも言及していた)、もっと云えば男女であってもよいというのは、確かにうなずける。(一般にという訳ではないが)やおい的関係性に対する一種の憧れが(潜在的に)男女問わず存在するのは、現実的な側面での人間関係の不自由さに起因するものなのかも知れない(中島みゆきの旅人の歌を思い出してしまった)。束縛ではなく尊重、これがファンタジーとしてしか成立しない(と云うのは大袈裟だろうが)のは、悲しいことだが。

 実際にやおいに携わる人(描く方も読む方も)の全てにインタヴューすることなど出来やしないし、まして自分自身少しだけ触れる機会があるというだけなので、厳密な検証は出来ないけれど、どういうものなのか知りたいという気持ちははっきりしている。この衝動は何なんでしょうね、一体。


 あと、川原泉の連載がだんだん短くなってるのが非常に気になる。もう言い訳すらしないし。まあ、らしいと云えばらしいのですが。